元気ですか~Σ( ̄□ ̄|||)
前回に引き続き、今回も宿場街を散策してきました。ですが、今回は「長崎街道」の筑前六宿のひとつ「原田宿」です。長崎街道は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(北九州市小倉)の常磐橋を起点として肥前国長崎(長崎市)に至る道です。約224㎞の道程で、25の宿場が合置かれました。
江戸時代においては、鎖国政策の下で幕府が日本で唯一外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として非常に重視されました。九州諸大名の参勤交代の他に、長崎奉行や西国筋郡代(江戸時代に4か所設置された郡代の一つ)の交代と、オランダ人や中国人の江戸参府や交易、献上品の運搬にも使われました。
原田宿は、長崎街道沿いの筑前国福岡藩領の南端に創られた宿場で、筑後国久留米藩領と肥前国対馬藩領の三国の境に位置しています。そのため、国境警備や領地の安全などの危機管理のために番所が設置され、領内に入る旅人に通行手形を発行する入国管理が行われていました。
原田宿から肥前国田代宿へ向うには、三国坂と呼ばれる急峻な峠道を越えなければなりませんでした。宿場で売られていた名物の「はらふと餅」を食べて、旅人達は難所に向かって行ったとされています。
原田宿は、「JR原田駅」周辺にありますが、原田宿までの道にも景色の良い場所や興味深い場所がありますので、まずはそれらの写真を掲載します。

俗明院菅原神社です。その名の通り、菅原道真公が祀られています。


上の2枚は、「俗明院南」の交差点からJRの踏切を越えた場所の景色です。観光スポットや名所ではないのですが、のどかな田舎の畑の風景が気に入って撮影しました。



この「旧九州鉄道城山三連橋梁」は、久留米基山筑紫野線のJR天拝山駅と筑紫駅の間に位位置する場所にあります。それゆえに、久留米基山筑紫野線から来た私はどこにあるか分からず一度は通り過ぎてしまいました(^▽^;)
そんな思わず通り過ぎてしまうような場所に、国登録有形文化財があるとは何とも意外です😲


この2枚は、旧九州鉄道城山三連橋梁のある場所から見た周辺の景色です。この辺りものどかで良さそうです。


この2枚は、いよいよ原田宿も目前という場所です。当然と言えば当然なのですが、どの写真にしてもそうなのですが、写真だとどうしても実際の景色をそのまま再現するのは難しいです。それはどんなに高性能なカメラを使っても撮影出来る範囲には限りがありますので残念です。
それゆえに、もし写真を見て興味を持ったという場合は、是非実際にそれぞれの景色を見に来ていただきたいところですщ(゚Д゚щ)カモーン

ここから原田宿になります。この案内看板は、JR原田駅のロータリーにあります。

伊能忠敬の銅像です。ここにも歴史的超有名人の痕跡があります。



この3枚は、原田宿の説明板です。原田駅のロータリーを進んで、トヨタカローラさんの裏側にあります。車も人通りもほとんど無いので、落ち着いて見ることが出来ます🧐

原田小学校跡石碑です。原田小学校は1899年に筑紫小学校と統合されましたが、その前にあった場所だと考えられます。詳しくは分かりません(^_^;)

かつて原田宿があった場所ですが、この原田宿に関しては、当時の建物はほとんど残っていないのが残念です。

「筑前六宿 原田宿場跡」石柱と案内板です。

案内板を拡大した写真です。思っていたよりも風化していてかなり見辛いです…
それでも、目を凝らせば何とか読むことが出来ますので虫眼鏡を使って何とか読んで下さい(;・∀・)

残念ながら全ての案内板がこのようにかなり読み難いのですが、以前に紹介した「筑紫野市歴史博物館」にも原田宿や他の宿場街の展示があります。是非足を運んで欲しいと思います。



伯東寺にある「はらふと餅」をついた石臼です。はらふと餅は、原田宿の名物でした。
はらふと餅が原田宿の名物と言われたのは、長崎街道にある三国坂と呼ばれた急峻な坂を上り下りするために、腹ごしらえをしておく必要があったからだといわれています。一説によれば、原田宿から山家宿を過ぎて、長崎街道で最大の難所と言われた冷水峠を越えるための準備であったとも言われています。いずれにしても、交通の要衝である筑紫野を過ぎるには、両所を通らなければならなかったので、餅の売れ行きも良かったのではと想像出来ます。
はらふと餅とは、形は丸くふっくらとして中に塩飴が入った薄皮の餅のことです。のちに塩飴から砂糖飴が使われるようになりました。ひとつ食べただけで腹いっぱいになるので、大腹餅とも言われるようになり、現在の「大福餅」の語源になりました。「田嶋外伝浜千鳥」には、この餅を出す店の様子が描かれています。
江戸時代中頃の川柳句集「柳多留」には、「腹ぶとを一口くって頬を焼き」という句があります。焼きたての餅を慌てて頬張った時の、旅人達が熱々の餅を熱がる情景が目に浮かぶようです。はらふと餅の店は東溝口の外にありました。餅屋がいつごろまで営業していたのかは定かではありません。1871年に宿場が廃止されて、それに代わって新しい交通網が整備されました。人々の生活や嗜好も急激に変化していきました。その時代の流れのなかで、はらふと餅もその姿を消していったと考えられます。


はらふと餅屋の店先(「田嶋外伝浜千鳥」)

上の案内板の絵を見やすくした絵です。

原田宿を通った人々の案内板です。これも見辛いのですが、よくよく見ると歴史的な有名人が通って行ったのが分かります(;゚Д゚)



筑紫神社の鳥居です。筑紫神社の歴史は非常に古く、奈良時代に書かれた「筑後国風土記」を元にした筑紫神社に伝わる「御笠群筑紫神社社縁起」には
筑前国と筑後国の境に荒ぶる神がいて、往来のものの命を奪うので困り果てて、筑紫神社として祀ってこれを鎮めた
という筑紫の国号の起源ともされる説話が伝わる古社です。現在の建物は、1712年に、福岡藩によって再建されたものです。その再建の時の棟札が現在も筑紫神社に残されています。


太宰府天満宮参詣道 道標石です。かつて、原田宿を通って旅をしていた人々は、この石を見て、太宰府天満宮までの道程を思い描いていたのでしょうか?

まほろば・産土の神

御神木筑紫松

尊王烈士碑です。明治維新を前に、旺盛復古を目指した勤王志士は福岡藩にも勤王に尽くした二人の武士がいました。それが、上の「尊王烈士碑」に祀られている二人です。旧西小田村の岡部諶と旧隈村の吉田重藏で、昭和3年に顕彰の為当時の筑紫村小学校用地に建立されました。

日露戦役勤彰紀念之碑


このような看板もあります。原田宿の当時の賑わいが想像されます。
いかがでしたでしょうか?原田宿は他の宿場街のように当時の建物が残っている訳ではないのですが、当時を思わせるものが各所にあり、歴史を感じることが出来ますし、周辺には自然が豊かな場所もありますので、その景色を楽しむことも出来ます。
また、以前に紹介した「五郎山古墳」は、原田駅から歩いて10分ほどの場所にありますので、併せて足を運んで欲しいところです。そして、次回はまたまた宿場街です。次は同じ長崎街道の筑前六宿「山家宿」を紹介します。
それでわまた次回🫡


コメント