山家宿を往く🚶‍♂️

史跡

こんにちわございます🙂

前回に宣言した通り、山家宿に行って来ました。山家宿は原田宿と同じく「筑前六宿」のひとつです。筑紫野市の北東部、宮地岳の麓に位置していて登山口もあります。更に北東には大地根山があります。この山間を冷水峠と言って、長崎街道は冷水峠を越えて内野宿に続きます。また、山家宿の南には博多と日田を結ぶ「日田街道」が通っています。

今回は、「山家道」交差点から長崎街道を北上して、「山家宝満宮」辺りまでのそれぞれのスポットを紹介します。

山家宿には当時の建物などが今も残っている場所が多いので、より当時のことを体感出来ると思います🧐

山家宿に行く前に、まずはその前に立ち寄った「二宝満宮」です。場所は、山家道の交差点を少し西に行って北に進んだ場所です。後で紹介する「山家宝満宮」を勧請し1665年に建立されました。祭神は鴨玉依姫で崇神天皇の母親にあたる人物です。

まだ歴史が浅いからかまたは大切に手入れされているからかもしれないですが、新しい本堂です。周りの自然との調和も良いです🌳🌳

二宝満宮に行く手前の公園内にある「敬止義塾跡」です。つい通り過ぎてしまいそうですが、ふと立ち止まると諸々の物語が見えてきます。

山家宿場番所跡と追分石があった場所です。残念ながら追分石はここにはありません。どこにあるのかと言えば、以前に紹介した「筑紫野市歴史博物館」に実物が展示されています。

番所跡から少し進んだ場所です。当時の旅人もこの道を通って行ったと思うと何となく感慨深いです😌

長崎街道には、このような「長崎街道」と書かれた案内板が各所にあります。さすがに全ての写真は掲載しないですが(^_^;)

更に進んだ場所です。何となく当時の雰囲気を感じさせると思いますがどうでしょうか(・・?

のどかな小川の流れが良さげで撮影したのですが、写真だとイマイチ分かり辛いです。本当はもっと良い小川が流れているのですが(;・∀・)

西溝口と土塀です。山家宿は建物やその一部が残っていますし、周辺ものどかな田園風景ゆえに当時の状況が思い浮かび易いです。

西構口には二人の人物の石碑があります。一人は桐山丹波守孫兵衛きりやまたんばのかみまごべえです。彼は黒田二十四騎の一人として黒田家四代に仕えた功臣として知られてます。彼は御笠郡の代官に命じられた後、1611年に山家宿を創設しました。彼は山家宿の初代代官を務め、冷水峠道を開通させました。

原采蘋塾跡

原采蘋の漢詩

そしてもう一人は原采蘋はらさいひんです。原采蘋は秋月藩の儒学者、原古処はらこしょの娘で、日田・咸宜園の広瀬淡窓に才能を認められた女流漢詩人として知られてます。1850年に山家宿に私塾「宜々堂」を開き、近郊の青年の教育に当たりました。

福岡藩営の本陣である御茶屋の跡です。ここから奥が御茶屋の敷地でした。

桐山丹波守の墓所の案内板が現地まで続いています。

代官所配下の宿場役人「高嶋家」の屋敷跡です。建物は老朽化によって平成6年に解体されてしまったようです😂

「AsahiKASEI ゆっくり運転をお願いします」です…ではなくて、「下代屋敷もやい井戸」です(^-^; 下代の家族が共同で使用していた井戸らしいです🙃

井戸を上から見た写真です。残念ながら中を見ることは出来ません🫣

ここにも桐山丹波守の墓所への案内板があります。

代官所跡です。福岡藩が設置した代官所の跡地です。かつてこの場所に桐山丹波が通勤していたということでしょうか(^_^;)

桐山丹波の墓所まで小高い丘を登って行きます。

小高い丘を登り切った場所です。右側の茂みの中を進んで行くと桐山丹波の墓所です。

桐山丹波の墓所と墓所の左側にある案内板です。木漏れ日が何とも神々しい感じがします😎

この写真は桐山丹波の墓所に行く途中の景色です。小高い丘からの眺めが良かったので撮影しました。

この恵比須石神像の裏には、山家宿の成り立ちや、桐山丹波とその家臣の志方彦太夫の功績に関する銘文があります。また、表の恵比須様は、通常見られるものとは少し違っていて、県内にある他のものには見られない特徴があります。そのルーツは、兵庫県西宮市の西宮神社に祀られている傀儡子の祖「百太夫」にあると言われています。桐山丹波加守が同じ兵庫県出身だということと関係があるらしいです。

山家宿の町茶屋のひとつの中ん茶屋(長崎屋)の跡地です。案内板はありますが、今は個人宅のようです。

郡屋跡です。群屋とは、役人の集会所で筑前六宿もそうですが、主要な宿場にありました。御笠郡では、山家宿・原田宿・二日市にありましたが、現在でも残っているのは山家宿だけです。

山家宿の郡屋については、1862年の家の図面が残っていて建物の広さや位置が分かっています。それによると、門を入って左に郡屋守の屋敷と宝蔵があって、その先の敷地の中央に群屋があります。群屋の右には稲家と穀蔵、その奥に牛小屋があって裏門に続いています。裏門の並びには灰屋・材木小屋・薪小屋があり、一番奥に土蔵があります。ちなみに灰屋とは、堆肥を保管する場所です。

今は郡屋本体と宝蔵は残っていませんが、その他の建物は完全に近い形で残っていて、当時を偲ぶことが出来ます。

古き良き建物と自然が当時を偲ばせるような気分になります🙃

穀蔵

灰屋

郡屋土蔵

郡屋跡を出て長崎街道を北上している時に通った場所です。木々が生い茂げって緑のトンネルのようになっていることに、何となくノスタルジーを感じて写真を撮りました。

「東洋の国士 杉山茂丸」の石碑です。杉山茂丸は、小説家「夢野久作」の父親である人物です。明治維新後に父親の杉山三郎平と山家宿に移り住み、地域の人々のために奔走し、九州鉄道の敷設や博多築港の開設の他に、関門海底トンネルの建設に多大な足跡を残しました。

円通院(天台宗の寺院)

円通院から更に北上している時に通りかかった「JA筑紫山家支店」からの宮地岳の景色です。339mと登り易い山なので、いつか近いうちに登りたいと思ってます。

他にも行きたい山はいくつもあるのでいつになるかはまだ分かりませんが(^^;)

確かに当時の建物は残ってはいないのですが、それぞれの地を訪ね歩くのもまた好しです🙂

ここは、東溝口跡です。上記のように西溝口と違って当時の建物は残っていません。恵比寿像や一字一石法華塔があります。

恵比寿像

一字一石法華塔

井上政次郎先生の碑です。山家村の医療に貢献した医者らしいです。

ここからは、山家宝満宮です。山家小学校の奥の小高い丘を進んだ場所にあります。山家宝満宮には、玉依姫・神功皇后・応神天皇を祭神とする神社です。棟札によると、1521年4月に山家庄を支配していた砥綿氏によって建てられたらしいです。

戦国争乱の後の江戸時代には、代々の福岡藩主によって本殿、拝殿、神楽殿、が建立されました。現在の拝殿は1845年に再建されたものです。

鳥居と案内板付近

本殿

山家岩戸神楽殿

山家宿岩戸神楽の案内板です。こんな風に各地に民族文化があることは、凄く大切なことと思いますし、伝統が未来永劫続いて欲しいと思います🙂

山家宝満宮を出て筑紫野三輪線を今度は南に向かって歩いて行きます。その途中で通りかかった「西福寺」です。元々は久留米市にあったようでが、改派に反対したことで、追放され山家村桃谷に寺基を移転したいきさつがあります。 

山家宿問屋跡です。人馬の継立業務が行われた問屋の跡です。今となってはただの空き地にしか見えないとは思いますが(^▽^;)

山家宿の町茶屋のひとつの下茶屋(薩摩屋)跡地です。数多くの建物が残っている山家宿ですが、残念ながらここも案内板だけで今は横浜金属商事株式会社の敷地です。

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山家宿の紹介はこれで終わりですが、「JR筑豊本線 筑前山家駅」の駅前に面白いスポットを発見したので紹介します。

西鉄福岡市内線の廃止時まで使用されていた路面電車「500形507号」と、西鉄バス「いすゞBU15D」が静態保存されています。一見すると、放置されているように見えますが、「北九州線車両保存会」によって定期的に補修作業がされています。

西鉄バスの外観です。決して乗り物マニアではないのですが、感慨深いものがあります。

西鉄バスの内部です。何か郷愁めいたものを感じます(* ̄- ̄)

路面電車「500形507号」の外観です。まさかこのような場所で路面電車を見ることになるとは思ってませんでした(-.-)

路面電車の内部です。何かゾゾッとするような、何とも言葉に出来ない感覚になります。

他にもこのようなものが展示というか静態保存されています。もう何が何だか全く分かりませんが、このブログに相応しいスポットだと思います。

最後に山家宿に行く途中で撮影した宝満山の写真を掲載します。場所は、筑前町の宝満川近辺です。同じ山でも、また違った景色、違った良さがあります。

いかがでしたでしょうか?山家宿は当時の建物が残っている場所も多く、また人知れず興味深いスポットもあったことで、良い旅になりましたし、満足のいく写真が数多く撮れたと思います。ですが、現地に行って実物を見る感動にはやっぱり勝てません。それゆに、是非現地に赴いて実際の景色を目の当たりにして欲しいと思ってます。

山家宿周辺には他にも良いスポットはまだまだありますが、今回はこの辺で!いつかまた訪れたいと思い計画は立てている最中です。次は来年でしょうか(^^;)

それでわまた!See you next journey🏃‍♀️‍➡️

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