令和の里 ~水城跡周辺~

史跡

こんにち~わっΣ(゚Д゚)

前回お伝えした通り、今回は水城跡周辺です。

水城とは

日本で最初に築造された国家レベルの防衛施設です。防壁の規模は長さが約1.2㎞、基底部の幅が約80m、高さが約9m、濠には水が貯られていました。

日本は、唐・新羅に侵攻され660年に滅びた百済に救援を送りますが、663年の白村江の戦で大敗しました。唐・新羅の日本への進攻に備えて防備を固めるために664年に水城を築きました。

「日本書紀」の664年には「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名付けて水城と曰う」と記されています。

さらに水城築造の翌年665年には、大宰府の北を守る大野城と南を守る基肄城といった古代山城が築かれました。これらの築造には、兵法に通じた百済貴族の関与が日本書紀に記されていて、水城についても百済の防衛思想や構築技術が導入されたと考えられています。

何でこの場所に築造されたかいうと、この場所が博多湾側から大宰府に抜ける平野がも最も狭くなる場所で、守りに適しているために平坦部を塞ぐように築造されました。大野城市と春日市にも丘陵の谷部を塞いだ小水城と呼ばれる防壁があって、水城大提と併せて国の特別史跡水城跡と指定されています。そして、1350年の長い歴史の中でその様相を変えながらも、地域の人々に親しまれながら今でもその威容を誇っています。

何と、日本書紀という言葉まで出てくるとは、今回はまた一風変わった歴史のロマンを堪能してもらえるのではないかと期待しています😅

水城跡は東側と西側に分かれています。まずは東側を散策して行きます。

東側の土塁(防壁)は、片側に太宰府市の水城区、太宰府側に国分区が接しています。水城区は太宰府の玄関口とも言うべきところで、水城跡と県道112号線が交差する付近には、大宰府政庁があった頃、東門がありました。この東門を通る古代官道は博多と大宰府を16㎞のほぼ直線で結んでいました。伝説によると菅原道真は、博多から船で御笠川を上り、水城区にある老松神社辺りの渡し場で上陸したとも伝えられています。国分区の旧道沿いには、道真に縁のある衣掛天満宮や姿見井などがあります。

東門は、古来より太宰府の玄関口としての役割を担い、交通の要衝でしたが、現在門跡は残っていません。ですが、大宰大弐として赴任した藤原高遠が1005年、水城に到着した際に詠んだ和歌には「岩垣の水城の関に…」とあり、往時には石垣を伴った城門があったと想像されています。

この場所は、水城館の道路の反対側にあります。

東門木樋取水口跡です。水城は貯水機能を持った防衛施設とされてますが、ここから防壁の下に埋設された木樋によって内濠から外濠に送水されたとされています。

何気に置いてあるように見えますが、この両脇にあるのが「木樋」です。木樋とは太宰府側にある水路から地下を通して博多側の濠に水を流すための導水管のようなものです。この導水管は厚さが20㎝もあるヒノキの大きな板を組み合わせて造られました。

このように、福岡県各地には道端に歴史的なものがあり、新しい発見が出来ると思います。

大正天皇御大典の記念事業として、水城村青年会の発案によって大正5年5月に建立されました。碑の背面には、水城の歴史と正確な実測結果が刻まれています。碑の建立に伴い台座は宝満山から、碑文を刻む棹石は博多から青年会によって運ばれました。

水城館です。水城の歴史に関する説明や動画をみることが出来ます。とはいえそこまで広くはないです(^▽^;)

館内はこんな感じです。

展望所から水城が見えます。残念ながら今は高速道路によって分断されています。

福岡空港が近くにあり、離着陸する飛行機を見ることが出来ます。住宅街にある福岡空港特有の光景です。着陸時には旋回しながら空港に着陸しますが、個人的には好きな眺めです🛬

姿見井です。こんな住宅地に歴史上重要な人物の縁の場所があることは驚きです(゚Д゚;)

菅原道真公が大宰府に入る前に旅衣を脱いで松と石に掛け新しい衣に着替えた時の、その松と石を祀った場所です。

仏教による地方政治の安定と文化の交流をはかるため、聖武天皇は国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じられました。この一連の流れに従い、筑前国の国分寺として創立されたのが、現在の太宰府市にある筑前国分寺です。

このようにごく普通の公園でも遺跡が発掘されているということに、改めて太宰府市が歴史の町だと実感します_(._.)_

このような、住宅街の一角にも古墳があったりと、歴史的な街並みを歩いて散策出来ます。

ここからは西側です。西側の土塁は、博多側が大野城市下大利、大宰府側が太宰府市吉松と2つの行政区に分かれています。水城にあった東西2つの門のうち、西側には博多湾沿いに置かれた筑紫館と大宰府を結ぶ古代官道が通っていました。この道は外国使節団や遣唐使が往来する重要なルートで、西門は我が国の表玄関の役割も果たしていたようです。

水城西門跡は、現在は切り通し状になって土塁が途切れています。発掘調査の結果、水城の西側は東アジア情勢の変化と密接に連動して3回建て替えられたと考えられていて、土塁際では石垣も見つかっています。

当初は防衛的機能を持つ掘立柱の門だったようですが、奈良時代には外国使節団に対して日本の国力を誇示するために、国の表玄関に相応しい礎石を用いた瓦葺きの壮麗な門に建てられました。さらに平安時代初めには大陸との関係悪化から防御性を強化した門へと改築されました。

水城ゆめ広場です。西側を散策する場合の起点または終点になる場所です。県道31号線の青葉台入口交差点付近にあります。

西門には、この自然の景色の中を進んで行きます。私は一旦東側からゆめ広場に来てまた来た道を戻りました(;^ω^)

このような歴史を語る看板が草むらの中にぽつんとあったりします(^_^;)

奈良時代、筑紫館から水城西門を経て、道路遺構がみつかった島本遺跡、前田遺跡を通り、筑紫野市杉塚を経由して大宰府政庁へと続く、道幅約11mの真っ直ぐな官道がありました。外国の使節や遣唐使が往来し、日本に多くの文物をもたらしたと考えられています。

地元では水城を造るのに動員された父子が、水城の完成を聞いて、担いでいたもっこ(石を運ぶ道具)を放り投げたところ、土が盛り上がって出来たと伝えられています。

ふるさと水城跡公園です。四王寺山の景色が良いです。

看板の文字が凄く小さいです。元の写真ではかなり拡大すればそれなりに読むことが出来ますが、どうでしょうか🙃

土塁断面ひろばです。明治時代に九州鉄道(現在のJR鹿児島本線)建設のために水城大提の一部がカットされた場所です。2014年には水城築造1350年を記念した断面の発掘調査が行われ、古代の高度な土木技術を知ることが出来ました。2018年に土塁断面ひろばが完成して、解説や土塁の様子を手触りで知ることの出来る陶板の設置、版築で使われたアワブキが植樹されるなど、水城跡の魅力が伝わってくる広場です。

手触りを体感出来るように陶板で再現された土塁です。どんな手触りかは是非現地を訪れて実際に触ってみて下さい🫸

土塁ひろば付近の水城跡とその案内板です。

水城跡は以上です。いかがでしたでしょうか?水城は歴史的には重要な場所ではあるものの、どちらかと言えばマイナーな場所かもしれないです。ですが、いざ散策を始めるとその奥の深さと歴史のロマンを感じることで、その魅力にハマっていくことと期待しています。是非実際に歴史のロマンを体感して欲しいと思います。

でわまた次の旅で🚂🚋🚋

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